TRADITION AND HISTORY
OVER 1000YEARS
長い歴史が育んできた織物産地としての伝統と高度な技術が
桐生テキスタイルの礎になっています。
絹織物産地としての始まり。

関東平野の北部、群馬県の東端、栃木県との県境に位置する桐生市は、名峰赤城山をはじめ四方に山々をめぐらし、足尾山麓を源とする渡良瀬川と、その支流の桐生川の二つの清流に挟まれた盆地に発展した山紫水明の街。縄文、弥生時代の先住民族の居住跡が発見されるなど、その歴史は古代に端緒を発していることが明らかになっています。

風光明媚な桐生の街

織物に関する最古の記載は、約1300年前に編纂された「続日本紀」にあり、古くから「白瀧姫伝説」が語り継がれています。それは約1200年前の桓武天皇の時代、婚姻によってこの地に住むことになった白瀧という名の美しい姫が村の人々に養蚕・製糸・機織の技術を教え、それが桐生織の始まりとなったという伝説。その当時の絹織物は朝廷にも献上されていたと言われています。また、1600年の関ヶ原合戦では、徳川家康の旗布に桐生絹が使われたという逸話も残っています。

江戸時代後期になると桐生では手工業生産システムを分業化し、マニュファクチュア制度を確立。赤城山麓から品質の良いお蚕が沢山とれることから、賑やかな絹織物の市が立つようになり、桐生は織物の産業都市へと進化していきました。

桐生織物史 上巻「白瀧姫御真影」
文化元年 小寺応齋書 竝詞書より抜粋
桐生沙綾市之図
大正時代の桐生の織物工場の様子。

昭和初期には、ジャカードを装置した力織機は9820台、ドビーを装置した准紋織機は1128台を有し、桐生織物は組織の複雑な紋織物に変化していきます。第二次世界大戦中は国家統制の強化によって大工場は軍需工場へと転換され、織物業は壊滅状態で終戦を迎えます。しかし桐生は織機復元計画によって3000台余りの織機を復元し、いち早く生産を再開。レーヨンマフラーを始めとした輸出向けの商品が戦後復興に大きく寄与し、織物の街として復活しました。

戦後は輸出向けの生地生産で大きな復興を果たした。

モダンな生活の中に
溶け込むテキスタイルへ。

やがて人々の生活様式が変化していくと、繊維産業はファッション産業として人々の注目を集めるようになります。桐生織物は、1977年に「お召し織(おめしおり)」「緯錦織(よこにしきおり)」「経錦織(たてにしきおり)」「風通織(ふうつうおり)」「浮経織(うきたており)」「経絣紋織(たてかすりもんおり)」「綟織(もじりおり)」という7つの織物技術が経済産業省によって伝統的工芸品に指定される一方で、輸出織物・婦人服地・インテリア資材など洋装分野のテキスタイルも大きく発展。各種展示会を国内外で多数催すようになります。ジャカード機、ドビー機をメインに、生糸などの天然繊維から化学繊維までさまざまな素材を複合的に生かしつつ、先染物、後染物、プリント物、編物など広範囲にわたる技法を巧みに重ねた多種多様な生地を産出し、桐生は瞬く間に国内外の最新のファッション生地の発信地となりました。こうした歴史を経て、桐生はあらゆる要求に答えられる産地として、高品質・高規格の美しいテキスタイルを創造し続けています。